ジチタイワークス

石川県能登町

想定外の災害では何が起きたのか、避難所の現実から課題を読み解く。【防災特集】

現地職員に聞く【避難所運営】

石川県内では、1次避難所への避難者が最大4万人を超えたという。現場ではどのようなことが起き、自治体には何が求められていたのか。

中でも被害の大きかった自治体の一つである能登町で、避難所の運営に携わった職員たちが、自らの体験を語ってくれた。

※下記はジチタイワークスVol.33(2024年8月発行)から抜粋し、記事は取材時のものです。

Interviewee
左から
石川県能登町
総務課 危機管理室
室長 道下 政利(みちした まさとし)さん

復興推進課
主幹 灰谷 貴光(はいや たかみつ)さん

 

まちは一体どうなっているのか、情報がない中で始めた避難所運営。

発災直後、灰谷さんは指定避難所の小木中学校に向かった。到着時点で、すでに体育館前には多くの人がいたという。「寒い中、着の身着のままの住民も多かったです。合流した職員とともに急いで開錠し、まずは館内の安全確認を行いました」。職員数は限られていたが、地元の中高生や帰省中の若者たちが、受け入れ準備を手伝ってくれたそうだ。「この世代は、東日本大震災を教訓に防災教育を受けており、即戦力となってくれました」。こうして準備が整えられ、小木中学校での避難所運営が始まった。

一方、山間部にいた道下さんは、土砂崩れや倒木に阻まれながらも、18時頃に庁舎へ到着。「電話やネットもつながりにくく、被害の全体像は見えませんでした。避難所担当職員へ一斉メールを送り、とにかく全ての情報をチャットで私に報告するよう指示し、状況把握に努めました」。少しずつ情報が集まり、備蓄品を避難所に送る手配を始めたが、「職員が少ない上、道路状況も不明でした。また、年末年始の帰省者で人口は約1.5倍になっており、備蓄品は圧倒的に不足したのです」。

「小木中学校にも、発災当日は1,000人ほどいたと思います」と灰谷さん。19時頃には水が出なくなり、トイレが流せなくなった。そのため消防団と連携し、防火水槽の水を避難所へ輸送。また、地区内のDMAT経験をもつ医師が救護所を開設し、けが人などの応急手当てを行ってくれた。こうして、発災初日が過ぎていった。

※DMAT=Disaster Medical Assistance Team(災害派遣医療チーム)

平時に築いた地域コミュニティが、災害時に大きな役割を果たした。

小木中学校では、2日目になっても水や食料の配布ができなかった。「道路状況が悪く、役所からここまでの約8kmに、車で2時間かかる。今は外部の力は頼れないと判断し、ここにあるもので何とかしようと、動き出しました」。

地元のスーパーや酒店に相談して水や食料を調達し、停電していない民家には“おにぎりをつくってほしい”と依頼。さらに、海水を真水にする造水機をもつ漁船から水を入手したり、山水の採水に出向いたりと、手を尽くした。これらの動きにおいては、日頃からの地域との連携が活きたと振り返る。「各区長や消防団、漁協職員などの協力があってこそです。その間、若い世代が避難所の電話応対や、校内放送での連絡、防犯の見まわりをしてくれたのも大きな助けになりました」。

こうして辛うじて乗り切っていたが、どの避難所も厳しい状況だったと道下さん。「外部からの物資は3日頃から届きはじめましたが、おにぎりやパンは消費期限ぎりぎり。避難所に配るオペレーションは困難を極めました」。

1月5日から、対口支援の職員やDMATなどが現地に順次到着。この頃には、避難所内で新型コロナやインフルエンザの感染者が発生しはじめた。「問題は次々と起こり、正解はありませんでした。感染者の隔離や段ボールベッドの導入など、応援職員や医療スタッフ、地域住民、そして避難者も、総力戦で対応していきました」と灰谷さん。また、1月19日からは、避難者との対話会も始めたという。「応援職員からの発案でした。運営と避難者との壁を取り払う機会になったと思います」。

▲ 対口支援に入った宮城県・滋賀県職員と、毎朝8時に会議を行っていた。

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様々な支援を活かしながら、復旧・復興へと歩みを進める。

学校再開にあたっては、学校側と細かな調整を重ねたという。「生徒と避難者との生活空間をどう分けていくかのゾーニングや、卒業式をどこで実施するかなど、複数案を出しながら検討しました」。

2月に入る頃には避難所運営もやや落ち着きを見せたというが、「誰もが先の見えない不安とストレスを抱えていて、徐々にコミュニケーションに関する問題が起こりはじめたのです」。例えば清掃や食事当番などの分担、避難所と在宅避難との環境のギャップなどで、うまくいかないことが出てきたそうだ。「様々な場面で、関係者の間に入って“チューニング”を行う必要がありました。そこでもやはり、地域のコミュニティが助けになったのです」。例えば、決定事項は各区長から伝えてもらうなどすると、スムーズな伝達ができたという。

▲ 小木中学校の卒業式は、避難所との共存で行われた。
 

一方で、職員たちの体調が心配だったと道下さんは話す。「役所での寝泊まりや、超過勤務の大幅増加などで、疲弊していたのです。“対口支援の人たちが来てくれているんだから、安心して休め”と伝えていました」。

小木中学校避難所は4月21日に閉所し、役割を終えた。今回の地震については、「様々な災害対策の準備を進める中で起きたことだった」と振り返る。「県では地震想定見直しの真っ最中でした。また、当町も4月には公式LINEの運用を開始し、情報発信を行う予定だった、そんな状況下での被災でした」。

「他自治体からの支援には本当に助けられた」としつつ、2人の目は今後の復興を見据えている。「被災経験のある自治体の知見は、非常に参考になります。同時に私たちも今回の対応を検証し、課題を見直していく。そこに民間の力も取り入れて、共創しながら再建していくことが重要だと考えています」。
 

 

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