外出せず自宅からアクセスできるメタバース空間の特性を、ひきこもり支援に活かそうという試みが全国に広がっている。山梨県甲府市は、メタバースでのひきこもり個別相談を自治体が直営する取り組みに着手。当事者と自治体をつなぐツールとするべく試行錯誤を続けている。担当者に聞いた。
※所属およびインタビュー内容は、取材当時のものです。
Interviewee
甲府市 保健衛生部 生活衛生室 精神保健課
左:課長 上條 武人(かみじょう たけひと)さん
右:保健師 飯島 愛子(いいじま あいこ)さん
本人への直接支援を目指し、手探りでスタート。
甲府市が、ひきこもり当事者支援へのメタバース活用の検討を始めたのは令和4年度末のことだ。
「従来のひきこもり相談窓口では、初回相談の8割が当事者ではなく、ご家族や支援者でした。本人は面談に抵抗があるため、なかなか直接の支援につながらない。そこで、アバターの姿でコミュニケーションが取れれば相談しやすいのではないかと考え、メタバースに着目しました」と上條さんは説明する。
内閣府の令和4年度の調査によると、15歳~64歳の生産年齢人口における全国のひきこもりの人の総数は推計146万人。およそ50人に1人がひきこもり状態にあるという。
甲府市の令和5年度のひきこもり相談件数は延べ1,689件に達した。相談の終了までに時間がかかってケースが積み重なることや、訪問と電話、家族と本人など重ねて支援する場合もあって、その件数は増加傾向にある。
令和元年度にはひきこもり相談専用ダイヤルを開設。専門職が当事者や家族からの電話相談や来所相談に応じてきた。令和3年からは当事者のペースで社会参加の第一歩を踏み出せるよう「居場所づくり事業」も実施。市内のカフェを借り、支援者と相談したり、自由に過ごせる空間を設定している。10人程度が利用登録し、令和5年度は延べ76人の利用があったという。
このほか、当事者の家族の集いや家族教室、民生委員や支援者への研修会や、市民を対象とした講演会などを進めてきたが、当事者本人へのアクセスが限られるために、ひきこもりの実態がつかみきれないことが課題となっていた。
▲ネット上に開設されたメタバース「心のよりどころ空間」。24時間だれでも入室が可能だ。
メタバースの導入は部内で発案された。「外に出られない方が自宅にいながら相談できる態勢ができないか、電話も苦手という話をよく聞くので、メタバースならどうだろうと検討を始めました」と飯島さんは説明する。
当時、各自治体がひきこもり支援へのメタバース活用を模索しており、一時的なイベントや外部委託の前例はあったが、自治体直営で個別相談を手がけた例は見当たらなかったという。
「庁内にメタバース活用の前例はなく、技術に詳しい職員がいたわけでもありません。同じ山梨県の北杜市で婚活イベントに活用した事例などを参考にしました」と飯島さん。手探りでの出発だった。
準備期間を経て令和5年6月の補正で予算化。検討開始からおよそ半年後の同年10月に「甲府市メタバース 心のよりどころ空間」と「森の相談ルーム」が開設された。
アクセス数は好調だが、相談にはハードルも。
心のよりどころ空間は、誰でも24時間入室が可能で、同市のひきこもり支援の情報などを掲示している。相談ルームの様子が分かる「サンプルルーム」も設置されており、専門家との相談を希望する場合は、ここから予約ができる仕組みだ。
個別相談の場となる森の相談ルームの利用は予約制で、甲府市民が対象となる。ニックネームで申し込むことができ、予約者にURLを送ってアクセスしてもらう方式。週1回ペースで予約枠を設定し、精神保健福祉士などの専門家がアバターの姿で相談に応じる。
メタバース空間には、市のホームページからそのままアクセスできる。「アプリなどの登録が必要ないブラウザ型で、スマートフォンでも入れるプラットフォームを選びました。何よりも相談しやすさを一番に選びました」と飯島さんは説明する。
その効果もあってか心のよりどころ空間へのアクセスは、令和6年5月までに4,380件に達した。空間内に設けたアンケートにも「やわらかく落ち着いた雰囲気でいい」「イベントや居場所となる空間になればいい」と前向きな声が寄せられたという。
ただ、目指していた当事者との個別相談は、なかなか実現しない。予約の申し込みがあり、相談にあたる職員が当日待機したものの、当事者が現れなかったケースもあるそうだ。
▲ひきこもり当事者との個別相談のために用意された「森の相談ルーム」。専門家がアバターの姿で相談に応じる。
「想定内ではありましたが、なかなかひきこもりの当事者にはつながらない。空間をつくっただけですぐ相談には結び付きません」と飯島さん。
上條さんは「メタバースの利用に関して、まだハードルが高いと感じている方もいるのではないかという意見もあります。まず当事者や家族に、気軽にメタバースを利用していただくための工夫が必要でした」と振り返る。
初の交流会で手応え、それぞれの一歩に。
そこで令和6年6月27日、メタバース空間を活用した初の交流会「おいでよ!メタバースの森」を開いた。ホームページやチラシのほか、関係機関などを通じて呼びかけ、当日は当事者3人と支援者1人が参加。市の専門職が進行役を務め、アバターでの体操や宝探しなどの簡単なゲームを通じて、約1時間にわたって交流した。
「宝探しでは『ここにあるよ』と声をかけ合い、参加者みんなが楽しみながら、気軽に参加していただけたと思います。チャットで会話したり、リアクション機能を使って拍手したり『いいね』を送ることもできる。リアルではすぐにできなくても、アバターの姿だからこそできることもあると感じました」と飯島さんは手応えを語る。
▲初の交流会「おいでよ!メタバースの森」では、ひきこもり当事者らが宝探しゲームなどで交流した。
終了後のアンケートでは参加者から「操作にはすぐに慣れた」「ゲームのようで面白かった」「会話主体の交流会をやってみたい」といった趣旨の感想が寄せられた。
好評を受けて9月と12月にも交流会の開催を予定する。「当事者と行政をつなぐひとつの手段として、メタバースを気軽に利用していただきたい。交流会を通じて、その点を浸透させていきたいと思っています」と上條さん。これをきっかけにまずは、当事者が普段から疑問に思っていることや行政サービスの問い合わせなど、相談でなくてもコミュニケーションを取りながら、やがて困ったときに個別の相談につなげていきたい考えだ。
メタバース活用を通じてどのような支援の形を目指すのか。「ひきこもり支援のゴールは当事者とご家族が決めるもので、必ずしも就労や就職ばかりではありません。とはいえ、困ったときに助けを求められる態勢をつくっておくことは必要です。メタバースはそのツールの一つ。この方法ならば人と交流できるという可能性があるので、それぞれの幸せに近づく一歩になればいいかなと思っています」と飯島さん。
一連のひきこもり支援は高い関心を集め、令和6年度だけでも県外から3件の視察があるという。同市のメタバース導入のきっかけともなり、今後は別の部署で就労支援に活用する構想が進んでいる。求人企業がメタバース空間に一堂に会し、求職者との情報交換の場とする計画だそうだ。
当面はそれぞれ別のメタバースで展開する見込みだが、上條さんは「いずれは同じプラットフォームを使い、最終的には甲府市の行政相談全てが一つのメタバース空間でできるようになるのが理想ですね」と将来像を語ってくれた。
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▶ 【新潟県長岡市】震災と合併で消えた村が、メタバースでよみがえる。
▶ 【鳥取県】メタバースからの情報発信で、関係人口を創出する。
▶ 【山梨県北杜市】メタバース婚活で人口の地元定着を目指す。
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