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【区長の本音<6>練馬区長・前川 燿男さん】住民自治を徹底。弱者を支える。

令和7年は、東京23区の区長公選制が復活して半世紀、都区制度改革により「基礎的な地方公共団体」と認められて25年の節目にあたる。日本の首都を支える区長の皆さんの素顔と「本音」をご紹介する連続インタビュー6回目は練馬区長の前川 燿男さんが登場。東京都と23区の関係や、社会的弱者を支援する区政の方針についてお話をうかがった。

※インタビュー内容は、取材当時のものです。

練馬区長・前川 燿男さん

 

◆プロフィール

前川 燿男 (まえかわ あきお) さん

昭和20年、鹿児島県鹿児島市生まれ。東京大学法学部卒。昭和46年、東京都に入庁。福祉局長、知事本局長など歴任。東京ガス株式会社執行役員などを経て平成26年から練馬区長。現在3期目。趣味はジョギング、登山、謡・仕舞、読書。

 

こんなこと聞きました!

区長になるまで / 区と都と国と / 重点政策は / 行政の最先端で / 休日の過ごし方

福祉行政が原点。里親制度の創設も。

― まず前川さんが「区長になった訳」をお聞かせください。

成り行きですよね(笑)。 長い間東京都に勤めて定年を迎え、政治的な対立の波及もあって辞めることになりました。東京ガスに7年ほどいましたが、練馬区長の前任の志村 豊志郎さんが亡くなり、自民党と公明党から話が来たんです。どうしようか考えましたが、公務員を辞める時に不完全燃焼の部分もあったのでお引き受けしました。 

― 都政と区政ではだいぶ性格も違うと思います。

区は独立した自治体ですから、自由にできるだろうと思って受けました。それは間違っていなかったですね。

東京23区は、練馬区であれば約75万人、世田谷区は約95万人の人口がいます。財政力もありますから、一人前の自治体になること自体はよいことです。あの当時、特別区の自主権の拡充を目指す動きがあり、一番のテーマが児童相談所の区立化でした。ただ私は大反対だったんです。事業の性格を考えずに東京都から自治事務や財源を移管することを自治権拡充の第一目標にするのは間違いだと思います。


昭和46年に都庁に入って最初に担当したのが障害者福祉と児童福祉行政でした。児童相談行政というのは広域専門行政です。子どもは都内に何十万人もいますが、その中で児童相談所の対象になる子どもはわずかです。そういう子どもたちをどう処遇するかは、児童福祉司など本当のプロが対応しなければなりません。それを区が担当して、果たして全てできるのか。私は反対しましたが、23区のうち22区が賛成でしたね。

そんなスタートだったので思わぬところで苦労しましたが、私の言ったことが正しかったことは時間が証明してくれたと思っています。結局、東京都が都立練馬児童相談所をつくりましたからね。 

― 区長になられた直後のことですね。

そうです。就任直前から問題になっていて、私は新たに加わったので、はじめは賛成の陣営からの働きかけが大変でした。ただ私は都職員として20代からやってきたことで、児童相談行政とは何なのか、身に染みて分かっていたので、とても賛成の方向には行けないんですよ。 。  

― 大学卒業後、都庁に入られた理由は。 

当時、美濃部都政(※1)が始まったばかりで、福祉政策や公害対策行政などで色々なことをやっていて面白そうだと思ったんです。 

― もともと公務員志望だったのですか。

父親が警察官だったこともあって、そういうものだと思っていました。民間企業に行くとは思っていなかった。公務員になろうかなと思っていたところで、たまたま都政が面白いことを始めていたので、ここがいいだろうと思ったんですね。

― 当初から福祉の仕事を思い描いていたのでしょうか。

びっくりしたのは採用後の面接で開口一番、「なぜ君は民生局(※2)を希望するんだ」と聞かれたことです。美濃部都政の看板行政のはずなのに、それを志望するのがおかしいのかと、大変びっくりしました。

入ってみて感じたのは、 役所というのは知事の命令一下、みんなで一生懸命やっているものだと思ったら、当時そこにあったのは旧態依然の官僚行政だったんです。

役所というのは不思議なところがあって、国でも都道府県でも、中枢がいいと思われがちです。例えば財政部門です。国だったら財務省、東京都だったら財務局、財務総務局がいいという価値観です。まさに昔の行政だなと思いました。これはおかしいなと思いながらのスタートでした。

― 民生局ではどのようなお仕事をされましたか。

色々な新しいことをやりました。児童相談所の運営も変えました。それまでの里親制度というのは養子縁組だけが目的だったんです。アメリカやヨーロッパのような近代的な里親制度がなかった。それはおかしいと考えて、先輩と相談して養子縁組を目的としない里親制度をつくったんです。大改革ですよ。かつてはすごい差別と偏見があったんです。

※1:美濃部都政 昭和42年から3期12年にわたった美濃部 亮吉知事による都政。初の「革新都知事」として、公害対策や福祉政策の推進、都営ギャンブルの廃止などを進めた。
※2:民生局 東京都民生局。1950年代~1960年代に存在した東京都の部局。福祉・保健・生活関連の行政を担当。現在の福祉保健局などに相当。

自治の徹底へ「都と区が協力を」。

― 都庁に30年間いらっしゃいましたが、都職員の立場から見て23区はどういう存在に見えました。

当初は自立性の乏しい組織だと思っていました。区長はそうでもないとしても、職員がついていっていないと感じていました。 

その後はだんだんと変わり、先ほどの児童相談所の件などでは、都から権限を移管するのがいいという話になってきた。そういう意欲があるのはいいことじゃないでしょうか。私が都に入った当時とは大きく変わったと思います。

― 区長公選制の復活や、区が基礎自治体となる経緯を都職員の立場から見ていましたが、何か変化を感じましたか。

当時はあまりなかったと思います。ただし区の規模でできることには限界があります。職員の能力や質の問題ではありません。

先ほどの児童相談所が典型です。対象となる子どもは少なく、預かるのは難しく、専門家が必要で、親元から離して遠くの施設に入れることもなかなかできない。自立する意欲をもつのはいいのですが、一気に「対等」というのは無理があったのです。そもそも東京市(※3)をなくして23区と都を残したのは間違いで本当は東京市を復活すべきだったと思っています。

大阪では逆に、大阪市をやめて大阪都にしようという動きがありましたが、大阪市があるからこそ、独自の判断でできる広域行政があるのです。都の規模になるときめ細かい専門行政がやりづらくなる。一方で、都市部の道路ネットワーク形成や面的な医療、福祉行政を区の範囲内のみでやるのは無理があるのです。現に今、医療行政は広域でやっています。

― 現在の23区と東京都との関係をどう感じていますか?

この2年間、特別区長会の副会長として、東京都と23区の関係を変えようとしてきました。特別区が東京都から権限や財源をもってくるという発想ではなく、東京都と特別区が協力してお互いの役割を果たしながら、国と対抗しなくてはいけない。それができていないことが課題だと思っています。

― 都と区が連携して国に対抗すべきというお話は興味深いです。

例えばふるさと納税が典型です。自分の住んでいる自治体に税金を納めなくてどうするのでしょうか。納税は住民自治の根源です。官邸主導で始まってしまいましたが、地方自治の本旨にかかわる問題だと考えています。

― 区長に就任されて12年目に入りました。区長の仕事とはひとことで言うとどのような仕事でしょうか?

区としての自治行政を徹底することでしょうね。団体自治と住民自治(※4)の両方ありますが、都にできなくて区にしかできない住民自治を徹底することです。住民の皆さんが税金を払ってくださり、住民の皆さんと共同で政策を立案して、それを実行していく、それに尽きるのではないでしょうか。

※3:東京市 明治22年に設立され、昭和18年の東京都制導入とともに廃止された市。廃止時の市域は現在の東京23区に相当する。
※4:団体自治と住民自治 「団体自治」は国から独立した団体に地方自治がゆだねられることを意味し、「住民自治」は住民が地域の政策決定に参加することを意味する。この2つが地方自治を構成するとされる

「困難な問題を抱える女性」を支援する。

― これまで区長として最も印象に残る出来事は何ですか?

様々な「練馬区モデル」をつくれたことですね。 中でも新型コロナのワクチン接種です。首相官邸から「大都市のワクチン接種のモデルをつくってくれないか」と言われて始めました。職員たちからインフルエンザワクチンと同じように、かかりつけ医で打てるようにしたいと提案があり、私も賛同して国と折衝しました。しかし厚生労働省は当初難色を示しました。そこで、具体的な仕組みを構築したうえで、私が官邸と話をして厚生労働省が練馬区モデルとして発表し、それが全国に広がりました。これが一番印象に残っています。

もう一つは、「練馬こども園」をつくって幼保一元化を実現したことです。長い間福祉行政に携わってきた経験から、福祉と教育の連携をちゃんとやらなければいけないという問題意識がありました。多くの自治体では、過去の先入観からくる抵抗もあってなかなかできないのですが、練馬区はもともと教育委員会が児童福祉行政を所管していたこともあって実現できました。これは大きかったですね。

病床も増やしました。練馬区は板橋区とともに医療圏を形成しており、板橋区の方が大病院が多いので、病床を増やすのには難しい制約があるのです。そこで板橋区から病院を移転するなど工夫をして1,000床増やすことができました。

― いま最も力を入れている政策は何ですか?

3つあります。まず「ねりま羽ばたく若者応援プロジェクト」。これは私が若い頃から手がけていた行政で、養護施設の子どもたちの支援です。都職員として日本で最初の養子縁組を目的としない里親制度や、家庭的に運営するファミリーグループホームをつくる改革を進めてきましたが、その延長上にある施策です。従来は18歳までだった養護施設の子どもたちへの支援を、退所後最長5年間まで延ばし、自立するまで支援するプロジェクトです。

2つ目は「医療的ケアにも対応した重度障害者の地域生活支援拠点」の整備です。障害者福祉に長年関わってきましたが、重度・重症の方を地域で支援するのは大変です。施設に収容するのではなく、地域の中で暮らせるようにするためには、例えば痰の吸引など医療面がネックになります。そこで医療的ケアのできる支援拠点をつくって重度障がい者とその家族が住み慣れた練馬で暮らし続けられるように支援します。これは東京23区で初の取り組みです。

3つ目は「困難な問題を抱える女性への支援」です。かつては「母子福祉」と呼ばれましたが、一部に差別的な見方も残っていて支援が限定されていました。これはおかしいと思い、区長になってから一人親家庭の支援プログラムを始め、予算を増やしたり支援を拡充したりしました。その延長線上で始めた支援です。光が当たることが少なくなりがちですが、私は忘れずにずっとやってきました。

これからも日本をリードする地方自治体行政を進めていきます。東京だからできることがたくさんあるので、それを率先してやる。これからも「練馬区モデル」をたくさんつくりたいと思っています。

現場で過ごした日々が大きな財産に。

― 職員を率いるトップとして心がけていることは何ですか?

職員が自発的に仕事をする組織にしなくてはいけないと思っています。トップダウンではなく、職員と一体となってやる、という考えです。私が上から直接指示することはそんなにありません。個別の施策を指示することはありますが、できるだけ下から声が上がってくるようにと考えています。先ほど申し上げたとおり、コロナワクチン練馬区モデルの発案は担当職員からでした。

そのためには課長や部長に「人」を得ないとできません。優しいだけではダメで、的確な指示ができて、展望を示せる人が必要です。政策立案の能力があって、それを指示できること。そうすれば職員もついてくる。組織管理はそれに尽きると思います。

―公務員のあるべき姿や区職員の理想像は描いていますか。

一番勉強になったのは、都庁時代に墨田区に出向したことです。中小企業の方々と日々話し合い、夜中まで酒を飲んだりしながら、新たな問題を発見し、産業支援などで「墨田区モデル」をたくさんつくりました。これが行政なんだ、国会議員がいて、都議会議員がいて、区議会議員がいて、そこに暮らす区民がいて、その最先端に自分がいるんだということを実感しました。政治と行政と業界が一体となって仕事ができたのは勉強になりましたね。東京都にいるだけでは分からなかった。

公務員のあるべき姿は、きちんと問題を発見できる職員ですね。理想や正義感があればいいという世界ではない。公務員としての問題意識をもって、現場をちゃんと見て、現実を見て、課題をどう解決していくか、どう対応したらいいかを常に考え続けること。それは現場でしかできません。

職員にも話していますが、私が自分に言い聞かせてきたのは「自分が立っているこの現場に世界の全てがある。それを発見する目をもたなくてはいけない」ということでした。そして「今この瞬間に何をやるか」です。公務員は自分の利益のためではなく、全体の利益のために働きますが、その姿勢を維持していくのは大変です。自分だけではできませんから、良き仲間をつくってお互いに支え合っていくことが大事ですね。

休日はジョギング。区の魅力を再確認。

― 休日は何をしていらっしゃいますか?

本屋巡りをしたいのですが、なかなか時間がありません。本屋は文化の原点だと思っています。

高校時代に倉田百三という作家を通して知った「歎異抄」が愛読書です。親鸞の言葉を引用している部分は全部暗記しました。ここ数年は、夜寝る前に暗唱し、覚えた文章を繰り返しながら眠りにつきます。

昔から日本の古典が好きですが、親鸞の言葉が一番迫力があるなと思います。「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし(※5)」という一節が好きで、若い頃、仕事に行き詰まった時には心の中で繰り返していました。

ほかに最近面白かったのはエイブラハム・リンカンの伝記です。最初から出来上がった偉人ではなく、いかに政治的に苦しみながら奴隷解放の思想に到達したかを初めて知りました。

― 座右の銘はありますか?

座右の銘はいくつかありますね。親鸞の言葉もそうですが、旧二本松藩主・丹羽高寛の「下民(かみん)は虐げ易(やす)きも 上天(じょうてん)は欺き難(がた)」もそのひとつです。民衆に負担を求めるのはたやすいが、天をあざむくことはできない、という意味で、公務員として“いろはのい”です。

勝海舟の「行蔵(こうぞう)は我に存す」という言葉もあります。出処進退は自分で決めるという意味で、幕府の中心だった海舟が明治新政府に仕えることについて聞かれて答えた言葉です。

小津安二郎の「なんでもないことは流行に従う、重大なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従う」という言葉も好きです。行政のことは自分に従うと言いたいところですが、なかなかそうはいきません。色々な言葉を自分の中で反芻しています。

― 最後に、練馬区の魅力と区役所の自慢を教えてください。

都職員時代、転居先をどこにしようと調べた結果、緑が多くて環境がよく、かつ都心に近いのは練馬区で、将来も維持できそうだと思いました。光が丘の開発(※6)もあり、これから一番発展するだろうと思って選びましたが、当たりましたね。今も土日は「光が丘公園」を走っています。外周5キロの並木の間を走るのがちょうどいい。都市と田園の両方の魅力があります。

区役所の自慢は、真面目な人が多いことですね。生真面目なだけでなく、時々ピリッと政治的センスがある面白い職員もいます。色々な人材がいるのが一番いいのではないでしょうか。これまでそれを活用しきれていなかったかもしれないので、みんなと一緒にもっと力を合わせてやっていきます。

※5:いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし 親鸞の教えを伝える「歎異抄」の一節。「どのような修行もやり遂げることができない身なので、地獄が定められた居場所だ」の意。
※6:光が丘の開発 戦後、米軍の家族住宅として使われた用地が昭和48年に返還され、大規模な団地と「光が丘公園」が造成された。面積約1.6㎢で都内有数規模の団地開発。

 

ジチタイワークス・西田 浩雅◆取材後記
都職員として34年。知事本局長まで上り詰めた後、かつては「自立性が乏しい」と感じていた区政のトップに。都と区が対立するのではなく、一体となって国に対抗するべきという視点は、そんな経歴の反映です。原点にあるのは福祉行政への変わらぬ信念。弱者を支える政策の数々に、若き日の情熱が垣間見えました。(西田 浩雅)

 

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