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【区長の本音<12>文京区長・成澤 廣修さん】子どもと高齢者、2つの世代を戦略的に守る。

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【区長の本音<12>文京区長・成澤 廣修さん】子どもと高齢者、2つの世代を戦略的に守る。

区長公選制復活から半世紀、「基礎的な地方公共団体」となって25年という大きな節目を令和7年に通過した東京23区。そんな日本の首都を支える区長の皆さんの素顔と「本音」をご紹介する連続インタビューの12回目は、文京区の 成澤 廣修さんが登場。区長が率先しての子育て支援や若い世代の居場所づくり、人生100年時代を見据えた組織論についてお話をうかがった。

※インタビュー内容は、取材当時のものです。

「故郷を元気に」。中学生時代の夢を実現。

― まず成澤さんが区長になられたわけをお教えください。

そもそも政治を志したのは、区長になりたかったからなんです。私は文京区の出身で、医療機械の製造業が集約しているまちに住んでいました。職人さんが熱したガラス玉を吹いてフラスコをつくったり、聴診器を加工したりする光景が日常でした。職住近接ですね。

ところが中学生くらいの頃に業務地化、オフィス街化が始まります。おじいちゃんが亡くなった後、おばあちゃんがお店を守っていても、子どもたちは他県に移り住んでしまう。その後、地上げでおばあちゃんも住めなくなり、子どもたちに引き取られていく。

しかし、ある程度の年齢になって知らない土地に行っても新しい友達ができるわけではありません。孤独・孤立の中で認知症になったり、体を壊したりして亡くなったという話が聞こえてくる。私はおばあちゃん子だったので、おばあちゃんの友達がいなくなっていく現実を目の当たりにして「なんでそんなことになっているんだ」と疑問をもちました。

人がいなくなっていく故郷を守り、もう一度元気な地域にするにはどうしたらいいか。それが原点で政治を志し、いずれは自分で舵取りをしたいという思いが子どもの頃からあった。その夢を実現して今日があります。

― その後、25歳という若さで区議会議員になられました。

大学時代にご縁があり、岐阜県選出の杉山 令肇参議院議員(※)の秘書になるチャンスをいただきました。住み込みで、しかも議員は僧侶でもあったので修行のようでしたが、その中で政治の世界に進むことを決意しました。

大学卒業と同時に秘書を辞め、都議会議員選挙の応援や秘書見習いのような活動を経て、25歳で文京区議会議員選挙に立候補し、初当選しました。その後10年間議員を務め、35歳の時に議長になりました。当時の文京区議会議長は1年交代が慣例だったんです。

議長というのは、議会全体を取りまとめる一つの到達点でもあります。これを35歳で経験し、ある意味でやることがなくなってしまった。完全に消化不良の状態です。

杉山 令肇参議院議員 岐阜県出身の政治家。浄土真宗本願寺派の僧侶で、自由民主党の参議院議員(岐阜選挙区)を2期務めた。

区議会議長に就任後、大学院でリスキリング。

― そこで大学院への進学を決意されたのですね。

今でいう「リスキリング(学び直し)」ですね。もう一度学び直した方が議員としてのスキルアップになると考えました。そんな時、地下鉄丸ノ内線の中吊り広告で、明治大学に公共政策大学院ができることを知って「これだ」と思いました。

夜間の大学院で2年間学び直しました。現役の首長さんも受講しており、刺激的な環境でした。そこでできた人間関係は今も活きています。そして今は、私がその母校で授業をもっています。教えるためには自分自身も整え直さなければならないので、今もスキルアップに繋がっています。

― 区議時代、特に印象に残っている取り組みはありますか。

「地方分権一括法(※)」が平成12年に施行され、国・都道府県・区市町村という縦の関係ではなく、それぞれ役割が違う対等な関係だという考え方になったので、地方自治体が輝くために何ができるかを常に考えていました。

取り組んだのは議会の機能強化です。「開かれた議会」と言われますが、地方自治法に書かれている公聴会や参考人制度ですら、ほとんどの議会で活用されていません。しかし首長の権限が圧倒的に大きい中で議会が力を発揮するには、セカンドオピニオンとして機能すべきだと考えたんです。

議会自身が区民参画の手続きを行い、執行部と同じ意見なら是認すればいいし、違う声があれば「こういう区民の声もある」と示していく。与党・野党を超えて、議会として政策をつくっていく努力をすべきだと考え、参考人招致や合同勉強会を実施しました。

また、ワンルームマンションが増えすぎて何らかの規制が必要という議論になった時は、議員提出議案で条例改正案をつくりました。分権社会で議会が力を発揮するには何ができるかというテーマに取り組んだ結果です。

地方分権一括法 平成11年成立。国と地方の関係を「上下・主従」から「対等・協力」へ転換することを目的に、機関委任事務の廃止など約500本の関連法を一括改正し、地方自治体の権限拡大を図った。

中高生と一緒の“居場所づくり”で達成感。

― 区長になられて18年半になります。区長の仕事とはどのようなものでしょうか。

私たちは「住民に最も身近な政府」です。多くの職員に支えられながら合意形成し、それが住民福祉の向上に繋がった時、手応えを最も感じられる職業だと思います。

― 住民に対する立場と組織の長としての立場がありますが。

それは鶏と卵のようなもので、裏表では困るでしょう。使い分けることはしません。住民の方に対しても、違うと思えば「それは違うんじゃないですか」と議論しますし、職員とも対等に意見交換ができる関係を心がけています。

― これまでの任期の中で、最も印象に残っている仕事は何でしょうか。

中高生のためのサードプレイス(第三の居場所)として「b-lab(ビーラボ)」をつくったことですね。NPO法人「カタリバ」と一緒に立ち上げました。

カタリバは教育に特化したNPOで、子どもたちの意見を集約することにたけていると思えたのでプロポーザルへの参加を呼びかけ、結果的に選定されました。施設をつくるだけでなく、そこに血と肉を入れる作業を中高生たちと一緒に1年かけてやってくれたんです。

建築中から「この空間をどう使っていくか」といったワークショップを積み重ね、劇作家の平田オリザさんなどゲスト講師も招いてコンセプトづくりをしました。私も中高生と直接会って「ここはこう直した方がいいんじゃないか」といったやりとりをしました。

彼らと同じ空間にいて、直接話をする機会を作れたことは本当に大きかった。私が50歳になった時には中高生たちがホワイトボードに「区長、50歳おめでとう!」と書いて動画を送ってくれたんです。涙が出そうになりました。

地味かもしれませんが、行政として達成感のある、強く印象に残っている仕事の一つです。第2の「b-lab」をつくる計画もあるので、あの時の熱量をまた再現できるか、新たなチャレンジです。

― 区長は「子どもたちと高齢者への応援歌」というビジョンを掲げています。その意図をお聞かせください。

地域の宝である子どもたちと、地域を守り育ててくれた高齢者。この2つの世代を大切にすることが自治体行政の原点だという思いは変わりません。と同時に、これは戦略的な目標でもあります。

私が政治を志した原点は人口流出を食い止めることでした。そこで1期目に「人口20万人回復大作戦」を掲げました。子育て世代を呼び込むことは、結果として生産年齢人口を増やすことになり、その世代が納めてくれる税収などのメリットは行政コストを上回ります。

高齢者・障害者福祉には莫大な予算が必要ですが、生産年齢人口を増やすことで、その原資を確保することができる。子育て支援は高齢者福祉の基盤をつくる手段でもあるんです。どちらかを選択するのではなく、子育て世代を獲得すれば、高齢者のためにもなるという循環をつくろうとしました。

― その戦略は成功したのでしょうか。

当初の目標だった人口20万人はクリアし、現在は23万6000人まで回復しました。マンションが増え、ファミリー層が多く流入してくれました。今はむしろ小学校の普通教室が足りなくなっているところです。

育児休暇の率先取得で庁内の空気を変える。

― 男性首長として全国に先駆けて育児休暇を取得されました。

私が子どもを授かったのは44歳の時です。諦めかけていた時に生まれてきてくれたので、「生まれてきた子どもに精一杯の愛情を注ぎたい」という、その一点で育休を取りました。

ただ、どうせ取るなら付加価値をつけられないかと考えました。当時、文京区職員の男性育休取得率はゼロで、男女平等参画推進会議からの意見にも「区長の強いリーダーシップで改善せよ」と書かれていました。自分が取ることで職員へのメッセージになればと思ったんです。

結果として、今では文京区の男性育休取得率はトップクラスです。首長が取得することで「取ってもいいんだ」という空気が生まれ、行動変容に繋がったのであれば、それは良かったなと思います。

― 男女平等参画や多様性に関する取り組みも先進的ですね。

文京区は「女性活躍発祥の地」だと言っています。日本初の女子高等教育機関であるお茶の水女子大学ができ、その後も日本女子大学、跡見学園など、多くの女子教育機関が集まりました。平塚らいてう(※)が中心となって「青鞜(せいとう)」を発刊したのもこの地です。私たちはその歴史的な使命を担っています。

区役所の1階には「UN Women(国連女性機関)」の日本事務所が入っています。自治体の庁舎に国連機関が入るのは珍しいですが、これは誘致したわけではなく、外務省からお話をいただいたんです。私の育休取得や男女平等参画推進条例の制定などの取り組みを見て、文京区なら引き受けてくれるんじゃないかと評価いただいたようです。

― 今後、特に力を入れたい施策はありますか。

「若者支援」がキーワードです。令和7年に実施した実態調査で、多くの若者が孤立や孤独を感じていることが分かりました。今年度中に計画を策定し、若者のための居場所を作ろうとしています。まずテストケースとして、「Bunkyo Night Youth Lounge」という事業を始めます。週に1回、夜の時間帯にスペースを開放し、仕事帰りに本を読みに来てもいいし、友達をつくってもいい、ただいるだけでもいいという場所です。

中高生にb-labが必要なように、大人の若者にも家でも職場でもない息が抜ける場所が必要です。不登校の延長でひきこもりになっている人たちがそのまま高齢化すれば、将来の社会保障は成り立ちません。新たなターゲットとして若者を定め、アプローチしていきます。

「文京区こどもの権利に関する条例」も令和8年4月から施行されます。広く子どもの権利を守る体制をつくっていくための条例です。この条文も中高生の推進リーダーに書いてもらいました。「あなたたちが書いたものをそのまま条例案にします。議会も直せないはずです」と伝えて頑張ってもらいました。なかなかいい条例ができたと思っています。

平塚らいてう 明治・大正期の女性解放運動家。1911年に女性文芸誌『青鞜』を創刊。「元始、女性は太陽であった」の言葉で知られる。

人生100年時代。「職員自身がキャリア選択を」。

― 職員のトップとして心がけていることは。

区長になった時は41歳で職員も先輩がほとんどでしたが、今はほとんど年下です。最初の10年は交流の場を積極的にもちましたが、今の20代30代はお酒もあまり飲まないと聞きますし、雲の上の存在みたいに思われているだろうなという気もします。首長だけでは職場の雰囲気は改善できないので、管理層ぐるみでチームワークが良くなるような職場環境をつくっていくのが大事だと思っています。

例えば広報課も令和7年度から広報戦略課に変えました。メッセージ性のある広報を心がけようという趣旨で、区民に対してもそうですし、職員に対しても同じです。そうしたやりがいを感じられる職場をどうつくっていくかが重要ですね。

― 職員に求める理想像はありますか。

自ら課題を設定し、積極的に取り組む改革志向の職員であってほしいと言い続けています。そして、新入職員には必ず「ライフシフト」の話をします。

人生100年時代、20歳そこそこで入庁して60歳まで勤め上げるというかつてのモデルは、もう成り立ちません。教育、労働、老後という3ステージではなく、人生を何度も再設計する時代です。20年、25年というスパンで自分のキャリアを見つめ直し、学び直しをする必要がある。

行政としては長く働いてほしいけれど、職員自身の人生を考えた時、本当に今のままでいいのか、絶えず考えてほしいと伝えています。そうすることで仕事のモチベーションも維持できるはずです。職員自身の選択が重要です。

― 区長ご自身のオフの過ごし方や、座右の銘を教えてください。

最近は休みもなかなか取れませんが、時間を作って大好きな歌舞伎を見に行っています。これが一番のストレス解消ですね。歌舞伎を見ている間だけは仕事のことを忘れられます。つい先日も4時間半の公演を見てきました。

座右の銘は、尾崎 行雄(※)「人生の本舞台は常に将来にあり」です。80歳を超えた尾崎の言葉ですが、「あなたたちの晴れ舞台は例えば結婚式かもしれないが、本舞台は常に将来にあるんだ」という趣旨です。年齢に関係なくチャレンジングな気持ちをもち続けるために、この言葉を大切にしています。職員にも「次は何をしよう」と思っていてほしいですね。

― 最後に、文京区の魅力と区役所の自慢をお願いします。

文京区は東京ドームや19校もの大学が立地する特長がありますが、同時に「坂のまち」であり、路地の多いまちでもあります。例えば本郷には「落第横丁」なんていう名前の路地があって、昔の学生たちがそこで飲んだくれて落第したという(笑)。そういう路地一つひとつに歴史といわれが残っています。隠れた名所を探しながらまち歩きできるのが、文京区の奥深い魅力です。

区役所の自慢はやはり職員です。昔はこの大きな区役所(文京シビックセンター)が「タックスタワー」と批判されたこともありましたが、職員たちは本当に前向きに働いてくれているので、これからも誇りをもってともに仕事をしていきたいですね。

尾崎 行雄 明治から昭和期の政治家。号は咢堂(がくどう)。衆議院議員を長く務め、「憲政の神様」と呼ばれた。東京市長も歴任。