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【特集】関東大震災が日本にもたらした被害とは?そこからの学びは現代に活かされている!?

大正12(1923)年9月1日、南関東~東海エリアに甚大な被害をもたらした関東大震災。被害規模としては、明治以降に国内で発生した地震の中でも最大の自然災害という。発災から、今年でちょうど100年。関東大震災では、なぜそれほど大きな被害が出たのか。震災の体験から、国や地域は何らかの学びを得ることができたのか。名古屋大学特任教授で、関東大震災による被害実態の解明に貢献した地震学者・武村 雅之さんに話を聞いた。

 Chapter01 - 関東大震災を振り返る。“100年前”に学ぶ教訓とは?  ≫
 Chapter02 - 国や自治体等の災害情報共有はどう変化する? ≫
 Chapter03 - 進化するDXサービス、これからの情報入手法とは? ≫ 
 Chapter04 - 災害対応を高度化する防災IoTの活用例とは? ≫ 
 Chapter05 - 3D都市モデルは住民の防災意識をどう高める? ≫ 
   Chapter06 - 地域や立場を越えたつながりで防災力を高める。 ≫

 

Interview
武村 雅之(たけむら まさゆき)さん
名古屋大学減災連携研究センター
寄付研究部門・特任教授(理博)

プロフィール

地震学者。名古屋大学減災連携研究センター特任教授。1952年生まれ。1981年、東北大学大学院理学研究科博士課程修了(理学博士)後、鹿島建設を経て、2012年から名古屋大学減災連携研究センター教授。日本地震学会、日本建築学会、土木学会、日本活断層学会の理事、監事、委員、歴史地震研究会会長、日本地震工学会副会長、中央防災会議専門委員などを歴任。著書に『関東大震災がつくった東京-首都直下地震へどう備えるか』(中公新書、2023)、『関東大震災を歩く─現代に生きる災害の記憶』(吉川弘文館、2012)『未曽有の大災害と地震学─関東大震災』(古今書院、2009)ほか多数。

 

震源地から離れた東京で多くの犠牲者が出たのはなぜなのか。

関東大震災は、大陸プレートと海洋プレートとが衝突して跳ね上がる「海溝型地震」が、神奈川県から千葉県にかけての陸地の真下で発生したことによって引き起こされた自然災害です。

死者・行方不明者は推定10万5,000人と、平成23年の東日本大震災の約5.8倍ですが、関東大震災当時の国内人口は5,000〜6,000万くらいなので、人口比で見ると約10倍。被害総額のGDP比も40%近いので、こちらも東日本大震災の約10倍。東日本大震災級の震災が、同時に10回起きたと考えると、現代の人々でも被害の大きさが実感しやすいと思います。

▲日本列島周辺のプレート
 

関東大震災による被害の実態は、2つの事柄に分けて考える必要があります。前述のように、陸地の真下でマグニチュード8クラスに近い地震が起きたのですから、震源地である神奈川県~千葉県、特に、相模湾に面した場所で津波にも襲われた神奈川県は、大被害が発生しても致し方ない状況でした。

一方で、全被害の7割ほどを占めた東京は事情が異なります。通説として、昼食の準備で火を起こしている時間帯に地震が発生し、折からの強風によって大火災となったといわれていますが、それは直接的な原因ではありません。

確かに影響はあったでしょうが、神奈川ほど揺れてもいないのに異様なほど大きな被害が出たのは、東京だけだからです。

要するに“東京のまちづくり”に原因があったのではないかと考えます。時代が江戸から明治に移る段階で、明治政府は、江戸のまちの多くを占めていた武家地や寺社地を国有化しました。

いわば、まともなまちづくりを行う絶好の機会だったのです。ところが結局、土地を民間に払い下げたことで、道路も公園も整備されないまま、まちが出来上がりました。その後、富国強兵政策で多数の工場が建てられ、周辺には掘っ建て小屋のような労働者住宅が密集したのですが、それも放置したままでした。

さらにマズかったのが、新たに東京に住み始めた人たちに、江戸のまちのルールを周知していなかったことです。

当時、江戸のまちでは火災が頻発していて、火災時に多くの家財道具を持ち出すと、たちまち道が通れなくなるということを誰もが知っていました。幕府からも御触書が出されたので、火災の際は“家財道具を持ち出さない”というルールが出来上がっていました。

ところが明治に入って、江戸時代以上に人口が集中したにも関わらず、計画的な道路や公園などの整備を行わなかった上、ルールの周知も図らなかったのです。

その結果、関東大震災による火災発生時、住民たちはわれ先に大八車に家財道具などを積んで逃げようとし、道路が渋滞して通れなくなりました。そして、運んでいた家財道具を放り出して逃げる人だらけになり、延焼が広がったのです。

住民にまちのルールを周知し、共助の気持ちをもってもらうことまで含めて“まちづくり”ですから、その点においても、明治期の東京のまちづくりは、決して良いとはいえません。

▲現銀座四丁目交差点付近の焼跡(出典:東京市「東京震災録」)
 

震災後、大規模な道路整備や土地・区画整理が進められました。天皇陛下(正確には摂政の宮)も詔書を出し、帝都復興の方向性を示したことで、新たな橋が400カ所ほど新設されたほか、道路や公園も整備されました。

現在、東京中心部の橋梁の5割以上が、帝都復興事業でかけられた橋を使っています。未曽有の被害が発生したにも関わらず、震災からわずか6年半で都市が復興できたのは、当時の政治家や行政職員を含めリーダーたちが、まちづくりについて非常にしっかりと考えていたことの証しだといえます。

その想いと精神が、果たして現代も息づいているかどうかを、100年を経た今、改めて検証すべきではないでしょうか。

仮に現代で大地震が発生すると都市の人々はどうなるのだろうか。

当時と比較し、建築物の耐震性能は飛躍的に向上しました。ただ、1棟ずつの耐震性能をどれだけ高くしても、そこに大勢の人を詰め込んでしまうと、突然の災害に対応することが難しくなります。

東京2020オリンピック開催に伴い、東京の湾岸エリアには多くのタワーマンションが建ち並びました。しかしその結果、平日の朝、晴海から銀座まで行く途中の道路には、歩道が混み合うことへの注意書を書かねばならない状況になっています。

これは明治政府と同様、民間任せのまちづくりの限界を表しているのではないでしょうか。湾岸エリアの埋め立て地では、地震による液状化が起きる可能性が高く、それによるライフラインの途絶も考えられます。

JR東京駅の周辺でも、建築物の容積率緩和によって多くの高層ビルが建てられました。その影響で、東京駅の1日あたり乗降客数が約20万人増えたとされますが、大地震が起きればそれだけ多くの帰宅困難者が出るということです。

タワーマンションや高層ビルで“エレベーターが動かなくなったり内部に閉じ込められたりしたらどうするのか”“その状態で火災が発生したらどうなるのか”行政はそうしたことへの配慮も必要です。

帝都復興事業の開始時、天皇陛下の詔書には、国民のために東京の復興を図り、公共性を守ることが記されていました。高層ビルやタワーマンションが建ち並ぶ状況は、その真逆の方向に向かっているとしか私は思えません。

マンションデベロッパーなどによる利益優先のやり方を止められるのは、行政しかいないのです。自分たち、そして子や孫たちのために、どう進めていくべきなのか。そのことを職員の皆さんに考えていただきたいと思います。

関東大震災の教訓から自治体にできることは何か。

近年、民間でも行政でも、デジタル技術活用によるDXさえ推進すれば、あらゆる社会課題が解決する……と考える機運が高まっています。しかし、関東大震災当時には、デジタルツールなど一切存在していません。

それでも、地震が起きた9月1日から11月15日までの間に、東京と神奈川の人口がどれだけ減って、どこの誰がどこに移り住んだかといった数字は、国も自治体もおおむね把握できていました。

それは、現在の自治会長のような役柄の人たちが、自分の地域のことをきちんと周囲から聞き取って書式にまとめ、自治体に報告したからです。隣の部屋に、誰が住んでいるかも分からないような今の時代、果たしてそれができるでしょうか。

先ほど、まちのルールを周知すること、共助の気持ちをもってもらうことも“まちづくりの一環”だと述べましたが、それが住民の防災意識を高めることにつながるのはいうまでもありません。

DXを進めれば便利になりますが、そのベースとなるデータを準備するのは、結局“人間”です。便利になるからといって、データや資料の作成で余計な仕事が発生しては意味がありません。そんな時間があるのならば、職員の皆さんには、地域の会合などに積極的に顔を出してもらいたいと思います。

そして、自分たちが考えるまちづくりについて、胸を張って語っていただき、地域の人たちの共感を得ることの方が重要だと考えます。

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これからの展望と職員の皆さんにお伝えしたいこと。

DXによる行政業務の効率化については、民間に頼る方法でも良いと思います。DXは手段であって、目的ではないからです。

しかし、“公平性”を守ることは自治体でなければできないことです。公平性がなければ、災害に強く住民が安心して暮らせるまちはつくれません。

発災当時、当然ながら、自治体の公式SNSやホームページなどは存在しませんから、復興事業の推進は現代よりもはるかに大変だったことでしょう。それでも職員が住民たちに復興への協力を呼びかけ、住民もそれに応え、自治体を信頼して力を合わせました。

良いまちづくりを実現するためには、職員が果たすべき役割に誇りをもち、“自分たちのまちをどうしたいのか”“どうやって安全なまちにするのか”というビジョンをしっかりと描くこと。

これらを日頃から考え、職員同士と首長との間でビジョンを共有すること。そして、それを地域の人々に伝え理解してもらうこと。これが、今後非常に重要になると私は考えています。

 

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